江戸末期から明治初期にかけて全国で架けられた石橋(眼鏡橋)の約半数(300基以上)が熊本に現存しているのです。
なぜ熊本(肥後)に眼鏡橋が集中して架設されたのか?・・・物的要因は阿蘇山の大噴火による火山石が石橋の材料として最適だった
事、人的要因は江戸末期から明治初期にかけて「仁平石工グループ」「種山石工グループ」のニ大石工集団が存在した事でしょう。
「仁平石工グループ」は加藤清正が熊本城築城のため、近江の国(現在の滋賀県)より石工を呼び寄せて見事熊本城を完成させました
その石工の子孫「仁平」が、長崎に渡り石橋工法を学んで帰ったのがはじまりです。
仁平石工グループは、菊鹿町に熊本初のアーチ石橋「洞口(とうぐう)橋」を架けたのを手始めに、長陽村の黒川眼鏡橋・植木町の
豊岡橋・御船町の門前川橋など見事なアーチ式石橋を次々と架設して行きました。
また「種山石工グループ」は、種山石工の開祖といわれる藤原林七が長崎から肥後の種山村(現在の東陽村)に移り住み、
オランダ人から学んだ知識と独学による林七独自の石橋工法を完成させて、弟子たちにその工法を伝授、その弟子たちの中から
「岩永三五郎」「橋本勘五郎」などの天才石工が誕生し、後に岩永三五郎は薩摩藩に呼ばれて鹿児島の甲突川に「五大石橋」を架け、
橋本勘五郎は明治政府に呼ばれて東京の日本橋や旧皇居二重橋などを手がけ、熊本市の明八橋・明十橋なども彼が架設した物
です。この二大石工グループの存在がなければ当然熊本にこんなにたくさんの石橋は存在していなかったでしょうね!!
なぜ熊本(肥後)に眼鏡橋が集中して架設されたのか?・・・物的要因は阿蘇山の大噴火による火山石が石橋の材料として最適だった
事、人的要因は江戸末期から明治初期にかけて「仁平石工グループ」「種山石工グループ」のニ大石工集団が存在した事でしょう。
「仁平石工グループ」は加藤清正が熊本城築城のため、近江の国(現在の滋賀県)より石工を呼び寄せて見事熊本城を完成させました
その石工の子孫「仁平」が、長崎に渡り石橋工法を学んで帰ったのがはじまりです。
仁平石工グループは、菊鹿町に熊本初のアーチ石橋「洞口(とうぐう)橋」を架けたのを手始めに、長陽村の黒川眼鏡橋・植木町の
豊岡橋・御船町の門前川橋など見事なアーチ式石橋を次々と架設して行きました。
また「種山石工グループ」は、種山石工の開祖といわれる藤原林七が長崎から肥後の種山村(現在の東陽村)に移り住み、
オランダ人から学んだ知識と独学による林七独自の石橋工法を完成させて、弟子たちにその工法を伝授、その弟子たちの中から
「岩永三五郎」「橋本勘五郎」などの天才石工が誕生し、後に岩永三五郎は薩摩藩に呼ばれて鹿児島の甲突川に「五大石橋」を架け、
橋本勘五郎は明治政府に呼ばれて東京の日本橋や旧皇居二重橋などを手がけ、熊本市の明八橋・明十橋なども彼が架設した物
です。この二大石工グループの存在がなければ当然熊本にこんなにたくさんの石橋は存在していなかったでしょうね!!
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| — | 石橋のページ1 |
水島は、球磨川の最下流部に位置し、市中心部から約6キロ離れた干拓地そば。八代海に突き出た形の球磨川左岸の堤防沿いにあり、東西50メートル、南北30メートルの広さ。標高は11メートルしかない。シャリンバイやネズミモチなどの木々に覆われる。島は、明治時代の郡長の子孫が市に寄贈した。 日本書紀によると、「景行天皇が立ち寄って食事をしたとき、水がないため、侍臣が神に祈ると、がけのほとりから清水がわき出たことから、水島と名付けられた」とされる。 (via asahi.com:八代市・万葉集に歌われた「水島」-マイタウン熊本
)
文政2年(1819)につくられた四百町開の堤防樋門で、備前(岡山県)の人、高野貞七によって造られました。樋門には、城に使うような大きな石を使っています。若い現場監督の広松輔周が、上司の意にそむき大きな石を使わせたので「広松のもがい井樋」といわれています。この樋門堤防には、七百町開のときに長小屋が作られ、たくさんの人夫が寝泊りしました。誰ということもなく「名所名所と大鞘が名所、大鞘名所にゃ水がない」という唄がおこり「大鞘名所(大鞘節ともいう)」の発祥地となりました。
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| — | 熊本県八代市 |
1830年頃肥後の名石工、岩永三五郎がつくったといわれ、現在町内に残っている唯一のめがね橋です。橋の長さは7.2メートル、径間5.5メートル、幅2.8メートルです。明治10年の西南の役に日奈久に上陸して北上する官軍の斥候と熊本城を包囲していた薩軍から派遣され、南下中の斥候とが、初めて出会ったところで、その情報によって薩軍は氷川の線に陣地をかまえ両軍が戦いを交えました。 (via 熊本県八代市
)

